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連載第31回 最初の197回線 鹿島萬兵衛[155番]と父・萬平

鐘淵紡績(鐘紡)の“中興の祖”といわれた武藤山治が晩年、自叙伝に「斯業にも早くより先駆者があってそれ等の先駆者が如何に苦心されたかを思ひやると同時に、読者諸君に此事を御話し申上げ今日我国重要産業の一たる紡績が、決して一朝一夕の苦心で出来たものではないことを広く示したい」と感情を高ぶらせて書き始めたとき、武藤が思い描いていたのは鹿島紡績の創業者、鹿島萬平であった。最初の197回線では155番の鹿島萬兵衛の父である。日本の紡績業では、「女工哀史」といわれて社会的な指弾をあびるほど現場の仕事は苛烈であった。そうしたなかで武藤は、「鐘紡式労務管理」という恵まれた従業員福祉を実現していき、いわば日本における人本主義経営の基礎をなすのだが、その武藤が手本としていたのが鹿島萬平だった。
旧大蔵省醸造試験所の赤レンガ酒造工場。
鹿島萬平が明治3年に建設した紡績工場は後に手狭となったため移転し、その場所に旧大蔵省醸造試験場が設置された。
資料提供:独立行政法人酒類総合研究所


近代紡績業への注力は薩摩のDNA
 桜島を眼前に望む鹿児島市吉野町、通称磯の浜に幕末期の島津家の近代殖産興業への取り組みを展示する尚古集成館がある。集成館事業とは、薩摩藩主島津齊彬によって始められた富国強兵・殖産興業政策のことであり、ここにはかつて大砲をつくるための反射炉、造船場、洋式銃と火薬の工場、薩摩切り子の工房、紡績所などがあり、磯の浜は軍需と民需の関連工場が揃う日本のどこにも見ることのできなかった「官営工業団地」であった。齊彬は、緒方洪庵に電気・通信の外国書の翻訳を命じ、安政4年(1858年)には鶴丸城本丸と二の丸との間、約600メートルで電信も成功させている。
 尚古集成館において日本に初めて導入された洋式火力の紡績機などをみると、維新、特に薩摩藩における維新とは近代産業を手にして資本蓄積を進めた勢力による既存の妨害勢力の排除、つまり資本主義的な革命であったという感慨を持たずにはおれない。
 齊彬から忠義へと受け継がれた島津家は、迫り来る列強諸国の情報をいち早く知り危機感を深めていた。ペリーの来航で火がついた列強排斥運動、つまり水戸や長州を中心に湧き起こった攘夷の嵐のなかで、薩摩藩が攘夷運動と一線を画していたのは、列強諸国のもつ文明力の高さを早くから知っていたからであり、薩摩は当初から開国による富国強兵を志向していた。そうした自立への願望そのものに江戸幕府は邪魔な存在であったのだ。
 そうしたなかに「始祖3紡績」と歴史に残される近代洋式紡績工場が誕生した。ひとつは慶応3年(1867年)に薩摩藩によって磯の浜に建設され、イギリス・プラット社製の洋式火力紡績機が初めて導入された鹿児島紡績所であり、これが日本の近代洋式紡績の濫觴だ。次いで、鹿児島紡績所の分工場として明治3年に大阪・堺に建設された堺紡績所。つまり、始祖3紡績のうちふたつを薩摩藩がつくっている。そしてもうひとつが、鹿島萬平が明治5年に東京・滝野川で操業にこぎ着けた鹿島紡績である。
 ちなみに鹿児島紡績所をつくったのは島津忠義だが、島津家の近代紡績への深い関心は、齊彬が指宿の豪商濱崎太平次から西洋の糸を贈られ、その品質のすばらしさに「後年我が日本の膏血を絞るものは之なり」と断じたところに始まる。こんな素晴らしい糸が日本に入ってくるようならば、日本の国富はすべて外国に流れて国力は衰えてしまう。だから自ら近代紡績に乗り出さねばならない、というのである。
 明治新政府は、西南の役が終わるのと相前後して官営模範工場の設立を急ぎ、日本の紡績業の拡大に莫大なエネルギーと資金を注ぎ込んでいくが、それは維新という革命の前提として薩摩藩の諸外国の近代文明に対する猛烈な恐怖と、齊彬から始まる島津藩の「近代化=紡績業というDNA」のようなものが政策の核になっていったからにほかならなかった。


「西に島津、東に萬平」
写真 鹿島萬兵衛 だが始祖3紡績の立役者のひとりである鹿島萬平には、薩摩藩のような恐怖と表現してもよいほどの近代化への熱望があったとは思えない。幕末の大商人は、商人の感覚で近代紡績業の将来を確信したのであり、だから資金(カネ)もなければ人も技術もないなかで萬平は挑戦した。そして萬平なくしては、後に鐘紡の武藤山治に受け継がれていく人本主義的な紡績経営もなかった。こういう一介の民間人が時代のうねりを読み取り、産業のタネをまく。これこそが歴史の感動的な瞬間だ。
 「西に島津、東に萬平」と呼ばれていた。
 鹿島萬平は、文政5年(1822年)に家作と米屋を生業とする3代目仁兵衛の次男として江戸・深川に生まれている。兄が4代目と家作をついだのを機に米屋を譲り受けたが、これはおもしろい商売ではなかったのであろう。時期ははっきりとしないが父の死後、日本橋堀江町(現在の日本橋小舟町)に出て木綿と繰綿問屋を開業する。
 その後、元治元年というから1864年のことであろうか、萬平はとてつもない幸運に恵まれる。アメリカでは南北戦争が続き、ヨーロッパなどの綿花消費国への原綿供給地であった南部の農村は荒廃をきわめ、ヨーロッパは深刻な原綿不足に陥っていた。ここに大量の原料綿を供給していたのが日本だった。萬平もまた横浜の外国商館を相手に売りまくり、巨万の富を得たという。萬平、43歳のときである。
 この勢いに乗り萬平は慶応2年(1866年)、繰綿問屋仲間と合議し、外国の紡績機械を買って内地綿による近代紡績の興業を企図する。横浜にある米国商館ウォルスポールを通じ、イギリスはウイリアム・ヒッキング会社製の紡績機と工場設計図の作成を注文した。しかし製作が遅れ、戊辰戦争の混乱もあって機械が届いたのは明治元年暮れのことであった。
 このときすでに、出資を約していた繰綿問屋仲間は維新の動乱で破産したり、将来を悲観して脱落したりしており、萬平は、機械を横浜の倉庫に眠らせ、まずは自らもまた維新の動乱を切り抜ける方策をとらねばならなかった。
 萬平が近づいたのか、相手が萬平をスカウトしたのかはわからないが、萬平が結んだ相手とは三井であった。残された資料のなかでは「(萬平が)木綿問屋の組合総代という地位から三井組との関係を結ぶ」などと書かれているだけである。
 だが、幕末から維新のころの萬平の活躍はなかなかのものであったらしい。特に萬平を重宝したのが、幕末から維新における三井の大改革者であった三野村利左衛門だった。三野村は慶応2年に三井の組織改革に着手したのを手始めに激動の時代を乗り切り、三井を物産商社と銀行をもつ近代財閥へと変える糸口をつくった。
 彰義隊が上野寛永寺に籠もり2万両を無心してきたときは萬平が三野村の代理として交渉にあたり、2千両に値切り倒している。老練な繰綿問屋にとっては忠義だけを武器とする戦闘集団などちょろいものであったのだろう。
 さらに明治2年には、新政府は通商司を置き、そのもとに通商会社と為替会社を設立した。外国貿易や国内商業を担ったり、金融仲介を行う会社で、通商司は東京をはじめ大阪、横浜、神戸などに設けられたが、特に東京では三野村が「総差配司」として実権を握り、これが三井の政商としての基礎になっていく。そのとき萬平は三野村の目代(代理)とされ、活躍により名字・帯刀を許されたという。
 萬平の紡績が、やっと始まるのはこの翌年のことである。通商司は1年足らずで役目を終えて解散となった。政治政策として所期の成果をあげられそうにないことが明らかになり、そのとき萬平はやっと、倉庫に眠っているあの洋式紡績機を動かすときがきたと考えた。
 すでに政府筋とコネはできており、東京滝野川の飛鳥山前、先は荒川へと続く石神井川脇で反射炉があった敷地を借りる算段となっていた。明治3年、萬平49歳にして念願の紡績会社が設立され、工場建設が始まった。




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