![連載第25回 最初の197回線 岩崎彌太郎と三菱(下)岩崎久彌[255〜256番]岩崎彌三郎[160番]](img/img01.jpg)
三菱の創業と成長は、創業者から連なる4人の個性的なリーダーたちによってもたらされた。維新の動乱の中で外国海運会社とし烈な戦いを乗り越えて基礎をつくった創業者、岩崎彌太郎。政府からの攻撃の結果、海運事業を手放し「海から陸」への転身を図った彌太郎の弟、彌之助。後に4代社長として事業部制を徹底させ自立経営を確立した彌之助の長男、小彌太。しかし、なんとも興味深いのは「三菱紳士」と呼ばれ、三菱の事業精神を体現した岩崎家3代目当主で三菱合資の初代社長でもある彌太郎の長男、久彌(255〜256番)である。久彌によって三菱は、事業集団としての理念、人格のようなものを育てることができた。妻の寧子が娘たちに、「わたしの一番の幸せは、お父様が家庭を清潔に保ってくださったこと」と語ったように、享楽とは無縁の教養人だった。
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 明治18年、三菱の創業者彌太郎は、政府と財界が支援する共同運輸との激烈な競争を繰り広げる中、胃がんで逝った。襲い来る激痛に耐えながら彌太郎は、枕元に控えた彌之助と久彌に「志したことの十分の一しかできないうちにこんなざまになってしまった。未練があるわけではないが、もう一度盛り返したい」と語った。18歳で父の壮絶な最期を看取った久彌は、三菱の経営を叔父の彌之助に託し、その指示に従って明治19年、アメリカ・フィラデルフィアのペンシルべニア大学に留学する。
大学では財政学を学び、学友たちが「カーネギーとロックフェラーを合わせたような偉大な地位に就く男とは、これっぽっちも思わなかった」と述懐するように、ごく普通の学生として過ごしている。久彌の祖母で岩崎家のゴッドマザーと言われた美和の訓戒、「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」の原点を忘れてはいなかったのだ。 久彌は明治24年、5年間の留学生活を終えて帰国する。明治26年には会社法ができ、三菱は合資会社として新発足する。これを機に彌之助は久彌にトップの座を譲り、自らは後見人として久彌を支えたことは前回、紹介した。久彌が28歳のときである。 事業家としての久彌は、彌之助や創業以来の幹部たちに支えられながらも、父親譲りの剛胆な決断を繰り返し、三菱の発展を加速させる。成長部門の造船では、長崎造船所の近代化を進め、神戸と下関にも造船所を開設。丸の内の兵営跡地の購入では、当時の東京市の年間予算の3倍という巨額での購入を決断した。さらに、政府資産の民間払い下げの総決算といわれ、帝室御料財産として宮内省が管轄していた生野銀山と佐渡金山の一括入札を落札している。

一方、久彌には「静」とも「穏」ともいえる性質も備わっていた。というよりも、こちらが久彌の本質であるのかもしれない。それを象徴するのが農場経営である。明治の実業家たちには、渋沢栄一にしろ、渋沢喜作にしろ高島嘉右衛門にしろ農場経営を夢見る人が多かった。その理由は一度検証してみなければならないが、久彌もまた多くの農場経営を手がけている。朝鮮やブラジルにも農場を開き、特に愛したのが岩手山麓にある小岩井農場だ。 小岩井農場はもともと、本格的なヨーロッパ農法を夢見た小野義眞(日本鉄道副社長 44番)、岩崎彌之助、井上勝(鉄道庁長官)の3人が明治24年に始めたものだった。3人の名字を一字ずつ採って「小岩井」である。しかし、厳寒の地故に8年後には小野と井上が手を引いた。久彌が彌之助から牧場を受け継いだのは明治39年。決してあきらめることのなかった叔父の意志を引き継ぎ、久彌は地道に植林に励み、イギリスからはサラブレッドを輸入して競走馬を育て、ホルスタインの種牛を生産し、酪農製品を作り続けた。 久彌家族は毎年夏、小岩井農場で過ごし、久彌はニッカーボッカーズとヘルメット姿で馬の調教に立ち会ったり、最新式のトラクターを操縦していたという。久彌一家は農場の人たちから「茅町様」と呼ばれ、秋の収穫祭で一等になった作物は、必ず「茅町」に届けられた。(茅町とは、現在の上野池之端近くにあった邸の所在地で、久彌は明治29年に茅町に邸を新築した。設計者は、イギリス人建築家で鹿鳴館やニコライ堂を設計したジョサイア・コンドルである)。 長寿だった久彌は、戦後の財閥解体後は千葉県成田の末広農場の別荘で過ごしたが、90歳の秋、病床に小岩井からリンゴが届くと障子を開けさせ、青い空を見て「もう、そんな季節に、なったか」と涙ぐんだともいう。久彌にとって農場経営は、し烈な事業経営とは別の、心落ち着く人生の理想を実現するものであった。 そう確信するのも、彼の理想主義的な思いが家族をも突き動かしているからだ。戦後、混血孤児の救済運動に立ち上がった外交官澤田廉三の夫人、美喜は久彌の長女である。大磯の岩崎別邸を使ったエリザベス・サンダース・ホームで美喜は、700人の孤児を育て上げた。美喜は、挫折しそうになると末広牧場に父を訪ね、相談を重ねていたという。

深川岩崎邸 ジョサイア・コンドルが設計した深川岩崎邸。関東大震災で邸宅は焼失したが、近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。その後、久彌が用地の半分を公園用地として寄贈し、現在の清澄庭園になった。
出典:国立国会図書館所蔵写真帳
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