
終戦後の復興期。
世界に遅れをとっていた日本の電話機が復活をかけて新型電話機の開発に挑戦する。課題は先行するアメリカの技術を追い越す電話機を日本人の手で開発すること。そして、終戦から5 年後の1950 年(昭和25 年)に念願の純国産電話機「4号自動式卓上電話機」が産声を上げた。
我が国における国産電話機の歴史は今をさかのぼること約130年、1876年(明治9年)に始まる。それは、アメリカの実用電話機「ベル電話機」の登場からわずか2年後の1878年のことで、ベル電話機をもとに設計したとはいえ、日本初の「1号電話機」を世に送った年である。しかし、その電話機は「蚊の鳴くような声」という通話音の問題を解決できずに実用化を断念。その後、1909年に2号電話機が、1933年には3号電話機が国内で生産されるが、実際には海外からの技術供与に頼る部分も少なくなく、純国産の電話機の開発は1号電話機で最初の一歩を踏み出したまま、しばらく踏みとどまることになる。 そして、日本が終戦を迎える1945年。1943年に108万だった加入電話数は終戦までのわずか2年間で半分以下の47万にまで落ち込んでいた。この激減した加入電話数の復興が当時の電気通信省(後の日本電信電話公社、現在のNTT)の課題となった。そして、その解決策の一つが、3号電話機に変わる純国産電話機「4号自動式卓上電話機」の研究、開発だった。
1933年に登場した3号電話機は構造上も量産化向きとはいえず、通話音質も「鼻をつまんだような」「くぐもった」音で、相手の声も聴き取りにくいという課題を抱えていたという。そのため、4号電話機の開発課題は3号電話機の問題解決が中心となる。ところが、当時の技術力では3号電話機を評価する技術がなく、改善のための評価基準の策定の研究から取り組まねばならなかったのだ。 そうした幾多の壁を乗り越え、独自設計による純国産実用電話機「4号自動式卓上電話機」が1950年に誕生。この電話機は3号電話機の性能・デザインを大幅に上回っていた。特に送受話器の感度は当時の世界水準を完全に凌駕し、今の電話とほぼ変わらぬ通話品質は「ハイファイ電話機」と呼ばれることになる。「蚊の鳴くような声」と揶揄された1号電話機から数えること72年。遅れていた日本が世界を追い越した記念すべきシンボルが、この4号自動式卓上電話機だったのだ。
4号自動式卓上電話機の設計思想は“長く、安心して使えるものを”だったという。『だるま』の愛称で親しまれた独特な筐体デザインも、生産性や壊れにくさを十分に考慮した結果の形状だ。しかも、ベークライト製の3号電話機の頻発する落下による破損事故を踏まえ、4号自動式電話機の設計においては耐用年数にも目を向けた。各部の素材から見直しを図っていたのだ。この基本設計の高さが、現在でも多くの4号自動式卓上電話機が利用されている理由でもあろう。また、4号自動式卓上電話機の効率の素晴らしさも特筆すべき点で、それにより従来よりも細い通信用ケーブルを利用することができ、従来と同じ太さの送電管により多くの本数のケーブルを納めることを可能にした。より多くの国民に電話を供給して電話普及率を向上させるという当初の目標に大きな貢献を与えていたのだ。
4号自動式卓上電話機は商家や企業だけでなく、簡易委託公衆電話としても利用されてきた。簡易委託公衆電話はタバコ屋や酒屋、薬局などの店先に置かれ、公衆電話として管理はその店主に委託された。ただ、電話機本体には料金を収納する機構がないため利用者は料金を直接店主に支払う仕組みだった。
1951年当時は黒色電話が使われたが、1953年8月に筐体を赤色にしたものが登場。以来、「赤電話」の名前で親しまれ、公衆電話の利用が急増するようになった。ちなみに料金は1951年当時で1度数5円(1953年から10円に値上がった)。市外通話は交換手に直接尋ねて料金を決めていた。4号自動式卓上電話機は、1962年に後継機の600 型電話機が登場する12年の間、日本の電話機の普及に多大な貢献をした。
写真提供:逓信総合博物館
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