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研究開発マガジン

よもやまツウケン Vol.6 東京・銀座“最後の電柱”、今昔物語

100年を超える日本の電気通信開発をリードしてきた「ツウケン」内には、「これは何だろう?」というものに遭遇することがあります。

右の写真は、研究所内の技術史料館に大切に保管されている“木製の電柱”です。なぜ電柱が史料館に保管されているのでしょうか。今回は、この電柱を巡る話題をご紹介致します。

時代の要請で減りつつある電柱
“電柱”は、電力用の架空電線などを支える柱(電力柱)と電話などの通信線を支える「電信柱(電話柱)」に分かれます。1869(明治2)年の東京-横浜間の電話開通時には日本で初めての電信柱が建てられています。

しかし、日本経済の成長や社会の発展の中で、都市の景観や交通の流れ、さらに災害時のダメージを抑制するなどの意味から電線類の地中化が促進され、徐々にその数は減りつつあります。

わが国を代表する老舗や世界のブランドショップが軒を並べる街「銀座」では、早くも1960年代に街からすべての電柱が姿を消し、管轄内に「電話柱を一本ももたない」地域となりました。

近代都市・銀座の誕生
東京・銀座の歴史は1612(慶長17)年、徳川幕府が駿府の銀貨鋳造所(銀座)を移転し、銀座役所を設置したことに始まります。そして、現在のような商業ゾーンとして繁栄したのは、明治以降のことでした。1872(明治5)年2月26日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火事は、銀座御堀端から築地に至る41町・4.879戸、28万8,000坪(約95万400u)を焼き尽くしました。この銀座の大火を契機として、不燃建築物による近代都市建設を目指した東京は、ジョージアン様式の街づくりを推進。翌1873年6月、銀座通り一帯は日本初の煉瓦(れんが)街として生まれ変わり、さらに1874年にはガス灯がともり、独特の情緒があふれるエリアとなったのです。

時は移って1968(昭和43)年10月11日、「明治100年記念大銀座祭」が盛大に実施されました。これに先立って、銀座の街はさらに大きく生まれ変わっていました。
1903(明治36)年以来六十余年間、都民の足となってきた東京都電・銀座線が1967(昭和42)年に廃止され、線路両側に張り巡らされていた電柱/電話線なども、地下の共同溝に移されました。さらにその上には、かつて線路に用いられていた敷石を利用して、御影石の歩道が築かれました。ここにおいて、首都・東京最大の商業エリアとして、新しい銀座の顔が生まれたのです。

銀座から電柱が消えた日
電話、電気、上下水道、ガスの管路を収容した全国初の共用管路となった銀座の共同溝には、さらに60年先を見越した収容キャパシティーが用意されました。これは銀座1〜8丁目までの銀座大通りを貫き、両側の歩道に深さ2m・幅2.8m、長さ東側878m・西側882m、その延長は1,760mに至る大規模なものです。この中で、電電公社(当時)のケーブル位置は、車道側上段の4列3段。総工費は、約1億5,000万円(約15万円/m)でした。ちなみに、東京都人事委員会の資料によれば、昭和43年の公務員初任給は27,600円となっています。

1966(昭和41)年12月16日、以上の共同溝工事に伴って(当時)銀座局に残った最後の電柱が撤去されました。この日をもって、同局は全国でも初めての「管内に電話柱を1本ももたない電話局」となったのです。 最後の電柱は関東大震災直後の1924(大正13)年に建てられたもので、四十年以上にわたるお勤めを終えたその当日、大手町の逓信博物館に収蔵されました。

大正から昭和へ、そして第二次世界大戦や戦後の復興、さらに高度経済成長を迎える急激な時代変化を、銀座の真ん中で見つめてきたこの電柱は、現在は、武蔵野研究センタの「NTT技術史料館」で静かに余生を過ごしています。ちなみに銀座最後の電柱には、以下のような「独白」が添えられています。

「長い間お邪魔しました。私は銀座で最も古い電話柱です。関東大震災の直後から43年間銀座で私が支えていた電話線は地下へ潜り、私の使命は終わりました。〜以下略〜」



参考・出典:「東京の電話・その50万加入まで」(編集 日本電信電話公社東京電気通信局、1958年7月1日発行)
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