News Release

2004年5月26日


電子看板が教える新たな視覚のメカニズム
〜 動きを使って形を見る 〜


 日本電信電話株式会社(以下NTT、本社:東京都千代田区、代表取締役社長:和田紀夫)は、人間がものを見るときに、動きの情報を利用して形をはっきり捉えていることを、錯視を用いた実験で明らかにしました。これは、脳内で形と動きが別々に処理されているという現在の脳科学の常識を覆す発見であるとともに、画像表示技術の開発の指針ともなる知見です。
 脳内では、ものの形とその動きはそれぞれを専門とする独立の神経機構で分析されるというのがこれまでの脳科学の定説でした(図1)。今回の発見はこの定説を覆し、形と動きの処理が視覚情報処理の最初の方の段階から密接に結びついていることを示しています。さらに、今回の発見は、画像を動かすとよりはっきり見えることを意味しており、今後の画像表示技術の設計に重要な指針を与えるものと期待されます。この成果は英国のライフサイエンスの総合学術雑誌『Current Biology』(5月25日号)に掲載されます。


1.実験の概要
 NTTコミュニケーション科学基礎研究所では、マルチスリット視に対する人間の知覚メカニズムを分析し、動きの情報が形の知覚に対して重要な役割を果たすこと明らかにしました。マルチスリット視とは、数本のスリットの列を通して文字などのパタンを提示する画像表示方式です(図2)。スリットの間隔が広いため、静止したパタンを提示すると正しくパタンは知覚できませんが、スリットを止めたままでパタンをスクロールさせるとその形がはっきり見えるようになります。この錯視自体は1970年代から知られており、電子看板などで商品化もされていますが、なぜそう見えるのかという原理ははっきりしていませんでした。
 マルチスリット視の古典的な説明は、観察者の目がパタンの動きを追跡することで元のパタンが網膜上に描かれるというものでした。今回の実験では、この可能性を排除するために、観察者がパタンの動きを追跡できないような状況ですべての実験を行い、そのような条件でもパタンの動きによって形の知覚が向上することを確認しました。つまり、マルチスリット視で見えるパタンは脳内で復元されているのです。動きの情報は形の知覚に無関係だというのが従来の常識ですので、パタン復元の際に動きの情報を用いるかどうかが重要な議論の分かれ目になります。動きを処理する神経メカニズムの特徴は、画像の動きの方向で応答が変わるという「運動方向選択性*1」ですので、今回の研究では、マルチスリット視の形の知覚が運動方向選択性を持つことを、2つの方向から実験的に証明しました。

(1) ノイズパタンによる妨害効果(マスキング)による運動方向選択性の検証
 スリットの間の領域にノイズパタンを提示し、その強度(コントラスト)や動きの方向・速度を変化させ、スリットに提示される文字パタンの知覚のしやすさを評価しました。そして、動きの方向によってマスキング効果が変化すること、具体的には、文字とノイズが同じ方向および速度で動くときにマスキング効果が最大になることを明らかにしました(図3)。これは、マルチスリット視の文字知覚に関係する神経メカニズムが運動方向選択性を持つことを意味します。さらに、動くノイズパタンを見続けた後に同じ方向に動くパタンの認識がより困難になるという順応効果も見いだしました。マスキングや順応は神経機構の刺激に対する選択性を示す一般的な心理物理学的手法ですが、それらの運動方向選択性をパタン知覚について示したのはこの研究が最初です。

(2) 知覚されるパタンの品質による運動方向選択性の検証
 スリットの列を通してパタンを見ると、細かい形が分からなくなります。理論的には、スリット間隔の2倍の周期の空間周波数(ナイキスト周波数*2)より高い空間周波数成分の復元は、知覚すべきオリジナルのパタンがどの方向に動いているのかを知らない限り不可能です(図4)。ですから、もし観察者がナイキスト周波数より高い成分を知覚できていたとすれば、動きの情報を利用していたと考える他ありません。この点を確認するために、逆相関法*3と呼ばれるテクニックを応用して、マルチスリット視において知覚されたパタンの空間周波数マップを推定しました。その結果、ナイキスト周波数より高い成分が実際に知覚されていることが分かったのです。


2.研究の背景・意義
 視覚系には網膜から高次視覚領野におよぶ複数の並列の処理経路があり、形と動きは別経路で処理されているといわれています。特に大脳の初期の視覚領野には細かい形に敏感だが動きの方向には無頓着な神経細胞と、動きの方向には敏感だが細かい形には無頓着な神経細胞が存在していて、それぞれ形と動きの基本的な分析を行っていると考えられていました。最近では形と動きの処理が独立でないことを示す事例もいくつか知られるようになりましたが、各属性が別々に分析された後の相互作用という形で理解できるものがほとんどです。一方、今回の発見が示唆しているのは、動きの方向に敏感な初期視覚系の神経細胞が形の処理にも関与しているということであり、動きと形の分離処理の概念そのものに疑問を投げかける発見です。
 我々の目は絶えず動いています。たとえ外界の事物が静止していても、網膜の上の画像は動いています。今回の実験はマルチスリット視という特殊な刺激を用いましたが、そこで示唆された神経メカニズムは日常のあらゆる場面ではたらいているはずです。そして、そのおかげで、我々はくっきりした視覚世界を知覚できているのだと考えられます。
 また、工学的な面からもマルチスリット視は画像表示技術として非常に興味深いものです。なぜなら、非常に粗い空間解像度のディスプレイなのに、高速に刺激を動かすことで見かけ上高精細の画像を提示することができるからです。今回の実験結果は、実際に脳の中で「高精細化」が行われる仕組みを明らかにしたもので、同様の原理を応用した将来のディスプレイの開発の指針となるものであると同時に、DLPディスプレイのカラーブレーキング*4など、現存の技術の問題点を改善するヒントを与えるものです。


3.今後の予定
 今後は、形だけではなく色などの視覚属性の知覚も、運動によって影響を受けるのかを明らかにします。NTTでは人間の認知機能の解明を通じて、新しい情報表示や圧縮の技術の基本原理を解明し、豊かな情報流通社会の実現に貢献します。



〈用語解説〉
*1 運動方向選択性:視覚刺激に応答する神経メカニズムが、ある方向の動きに強く応答するが、反対方向の動きにはあまり応答しないとき、そのメカニズムは運動方向選択性をもつといいます。

*2 ナイキスト周波数:画像などの信号を一定で間隔で抜き出す(サンプリングする)とき、信号がある周波数以上の成分を含む場合、元の信号を完全に復元できないことが知られています。この限界周波数をナイキスト周波数といい、その周期はサンプリング間隔の2倍です。ただし、これは静止画像についての理論的限界で、動画像をサンプリングする場合には、ナイキスト周波数は図3に示すような別の意味を持ってきます。

*3 逆相関法:入力刺激をランダムに変化させながら反応を測定し、ある反応と入力刺激との相関を取ることで、その反応を誘発する刺激を特定する方法。脳波測定や電気生理学の実験に続いて、最近では心理物理実験でもよく用いられるようになっています。

*4 カラーブレーキング:DLPなどのデジタル画像表示技術で、表示されている色を構成するRGBの成分が分解して見えるという現象。RGBの光を時間的に混合してカラー画像を作っていることが原因ですが、その生起のメカニズムには視覚系の特性が深く関わっていると考えられています。



図1: 従来からの分離処理説と今回の発見で示唆された新しい処理経路の関係
図2: マルチスリット視
図3: ノイズによるマスキング
図4: マルチスリット視におけるパタン知覚の理論的限界




〔本件問い合わせ先〕
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