平成10年10月29日
日本電信電話株式会社
理化学研究所
半導体量子ドット分子(人工分子)の実現
― 量子計算機実現へ向けて ―
NTT基礎研究所と理化学研究所は、デルフト工科大学(オランダ)との共同研究により、二つの量子ドット(ここではA、Bと呼ぶことにします)を結合させた半導体量子ドット分子(人工分子)を実現し、二つの電荷状態(1個の電子がA、あるいはBの量子ドットにある状態)の重ね合わせ(1個の電子がどちらのドットにあるのか特定できないが、二つの電荷状態を重ね合わせた状態になっています)の制御に成功しました。このような量子力学的な重ね合わせ状態の実現は、将来の量子計算機実現に向けての第一歩であると考えています。 この成果は、平成10年10月29日発行の科学論文誌Natureに掲載されます。
1. 背景
(量子計算機への期待)通常の計算機(以下、古典計算機と呼びます)では、「0」又は「1」の論理演算によって様々な計算がなされています。しかし、ある種の計算では、与えられた問題が複雑になるにつれて、計算時間が非常に長くなり、事実上計算不可能になる場合があります。例えば因数分解はその一例で、大きな数の因数分解は桁数が増えるにつれて指数関数的に計算時間が増し事実上計算不可能になることが知られています。また、膨大なデーターの検索においても、データー量が増すにつれて膨大な計算時間を要することが問題となります。
量子計算機は、量子力学的な重ね合わせの原理を用いることによって並列計算を実現するもので、量子力学的な干渉効果によって解を効率的に得ることができます。特に、因数分解やデーター検索のような問題について、量子計算機特有の計算手法(アルゴリズム)を用いることにより古典計算機よりも飛躍的に効率的な計算が可能になることが発表されてから、量子計算への期待は急激に高まっています。
しかし、量子計算に関する実験は始まったばかりであり、分子、イオン、光、半導体、超伝導など、多くの物質系で量子計算機の実現に向けた提案がなされ、基礎的な研究が行われています。最も進んでいるといわれるのは、クロロホルムやシトシンのような分子1個を1台の量子計算機として使う方法ですが、この場合でも数ビットの計算が行われているにすぎず、量子ビットの集積化などに問題が残ります。現在のところ、それぞれの材料系での特徴を議論しつつ、模索的な研究が続けられています。
(半導体量子ドット分子による量子計算)量子ドットとは、電子を微小領域(100ナノメートル程度以下の大きさ)に閉じ込めた構造で、電子の粒子性(電子1個1個を出し入れすることができる)と波動性(限られた電子の波をもつ電子しか存在しない)が共存しています。図1のように、2個の量子ドット(ここではA、Bと呼ぶことにします)に1個の電子を入れることを考えます。通常の古典的な考え方に従うと、電子がドットAにある場合(図1(a))と電子がドットBにある場合(図1(b))の2通りしか考えることができません。この二つの状態は、それぞれ、「0」および「1」の論理状態に対応させることができます。この場合、電子(電荷)の移動によって「0」「1」を表現しているので電荷状態と呼ばれ、二つの状態(エネルギー準位)しかないことから二準位系と呼ばれます。
この2個の量子ドットを量子力学的に結合させると、量子ドット分子(人工分子)となります。ここでは、電子が波としての性質をもつため、これら2つの電荷状態(「0」の状態と「1」の状態)だけでなく、図1(c)に示すような重ね合わせ状態を実現することができます。この重ね合わせ状態は、定常状態である「0」または「1」の電荷状態から時間発展によって作られる非定常状態で、例えば、短時間のマイクロ波パルスによって作ることができます。この場合、電子がどちらの量子ドットにいるのかを特定することはできませんが、「0」の状態と、「1」の状態の性質を同時に合わせ持っていることが最大の特徴です。この重ね合わせ状態は、量子計算機における情報の最小単位であることから、量子ビット(qubit)と呼ばれます。
古典計算機における1ビットは、「0」または「1」の情報をもっており、n個のビットを用意することにより、(2のn乗)通りの情報を表現することができます。しかし、n個のビットが持つ情報量は(2のn乗)通りあるうちの1個だけです。それに対して、1個の量子ビットは、重ね合わせ状態であるために、「0」と「1」の情報を同時にもたせることが可能になります。そして、n個の量子ビットを用意することにより、(2のn乗)通りある組み合わせのすべての情報を持たせることができます。このため、量子ビットの数を増加すると指数関数的に処理能力が向上するということが量子計算機の利点です。このため、量子ビットの集積化が将来の量子計算機への鍵になると考えています。
(本発表の位置づけ)一般に、量子計算機を作るためには、第一に、結合のある二準位系(例えば、1個の電子が量子ドットAにあるか、Bにあるかの二個の状態(準位)、およびそれらの重ね合わせが作れる系)を準備することが必要です。第二に、それらの重ね合わせ状態を非定常状態(例えば、短い時間のマイクロ波パルスの照射によって作ることができます)で作ることが必要で、これは量子ビットを実現することに相当します。そして、第三に、複数の量子ビットの間で量子計算を行うことが必要です。
本発表は、第一の関門である、量子ドット分子が結合のある二準位系であることを示したものです。半導体量子計算機を実現するためには、まだまだ技術的な問題が山積みされています。
しかし、本発表により、固体デバイスで量子計算機ができる可能性を示したこと、微細加工技術の蓄積のある半導体を用いることにより制御性のよい集積化に適している量子ビットが得られること、超伝導などと異なり本質的に低温での動作を必要としないことなどの利点を考慮すると、半導体量子計算機への期待は大きいと考えています。このような背景から、半導体量子計算機の第一歩である本発表が、重要なものであると考えています。
2. 内容
(半導体量子ドット分子の構造)本研究で用いた量子ドット分子の模式図を図2に示します。まず、化合物半導体であるガリウム砒素(GaAs)とアルミニウムガリウム砒素(AlGaAs)を積層することにより、これらの界面にのみ電子が存在するような構造を作製します。この半導体積層構造に、収束イオンビーム注入による絶縁化プロセスのあと、3本の表面ショットキーゲートを作製します。ショットキーゲートに適当な電圧をかけることにより、二個の量子ドット(A,B)とこれらに近接する電極(S,D)を形成することができます。また、これらのゲート電圧を調節することにより、分子の結合の強さを変えることや、電子がAにあるのか(「0」の状態)、Bにあるのか(「1」の状態)を制御することができます。
(分子状態の観測)マイクロ波測定によって量子ドット分子ができていることを確認した実験について説明します。
測定原理は、分子になっている場合となっていない場合とで、状態のエネルギーが変化することを利用しました。電子がドットAにいる状態(「0」)のエネルギー(E0)と電子がドットBにいる状態(「1」)のエネルギー(E1)とが図3(a)の破線のように変化するように、ゲート電圧を変化させます。量子ドット分子(人工分子)ができているとすると、これらの電荷状態は、結合状態(より安定なエネルギーの低い状態)と反結合状態(不安定なエネルギーの高い状態)とに分離し、それらのエネルギーは破線からずれて実線で示すように変化するはずです。マイクロ波励起トンネル電流分光測定は、マイクロ波光子エネルギーが、結合状態と反結合状態のエネルギー差に一致したときに電流が観測されることを利用したもので、マイクロ波の周波数(光子エネルギー)を変化させることにより、分子になっていることを確認することができます。
図2に示したように、マイクロ波を中央のゲート電極に印可することにより、マイクロ波を量子ドットに効率よく照射し、量子ドット分子を介してソース(S)-ドレイン(D)間を流れる電流を測定しました。その測定結果の一例を図3(b)に示します。ゲート電圧(横軸)を変化させながら測定したトンネル電流スペクトルを、様々なマイクロ波光子エネルギーの照射条件で測定しました。これらのピーク位置の依存性は、量子ドット間に結合がない(分子になっていない)と考えた場合(青線)とは一致せず、量子力学的な結合によって分子になっていると考えた場合(赤線)と非常によく一致する様子が観測されました。
すなわち、二個の量子ドットが、共有結合分子と類似した分子の状態になっていることが実験的に確認されました。また、この結合エネルギーの大きさは、ゲート電圧などによって変化させることができ、量子ドット分子の制御性の良さを示しています。
(半導体量子計算機への第一歩)今回の発表は、二個の量子ドットが結合して量子ドット分子になることを示したものです。すなわち、二個の電荷状態(電子が量子ドットAにあるのか量子ドットBにあるのか)が結合して、それらの重ね合わせ状態である結合状態と反結合状態に分離したことを示しています。このことは、量子ドット分子が量子ビットとして使える可能性があることを示しています。この点で、本発表が、量子計算機への第一歩であると考えています。
また、量子ドット分子の特徴は、完全に制御可能な二準位系であるということです。例えば、二準位間のエネルギー差(このエネルギー差によって、複数の量子ビットを明確に区別することができます)や、二準位間の結合エネルギー(このエネルギーは、量子計算のクロック周波数に対応します)を自由に制御することができます。このような特徴は、量子計算機に向けた実験を行う上で大きな長所になります。
実際にこの量子ドット分子が量子ビットとして機能するか否かは、短い時間でマイクロ波の照射を行い、非定常状態での重ね合わせを作ることができるかにかかっています。また、この非定常状態がどれだけ長い時間持続できるか、その持続時間の中で何回の量子計算ができるのか、などの基礎的な実験によって半導体量子計算機への期待がより明確になると考えています。
【掲載論文】
雑誌: Nature (1998年10月29日号) 題名: Microwave Spectrosopy on a Quantum-Dot Molecule 著者: T. H. Oosterkamp1, 藤澤 利正1,2, W. G. van der Wiel1, 石橋幸治1,3, R. V. Hijman1, 樽茶 清悟2, and L. P. Kouwenhoven1 所属: 1デルフト工科大学、2NTT 基礎研究所、3理化学研究所
単行本:
"Compound Semiconductors 1998" (IOP) (1999年4月発行予定)題名: Photon Assisted Tunneling Spectroscopy on a Double Quantum Dot 著者: 藤澤 利正1,2, T. H. Oosterkamp1, W. G. van der Wiel1, 樽茶 清悟2,3, and L. P. Kouwenhoven1 所属: 1デルフト工科大学、2NTT 基礎研究所、3東京大学
【参照】
NTT NEWS RELEASE